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 そして、名は体を表す。フライものは食べないほうがいいかも。揚げすぎてバーベキュー用の炭になる寸前で出てきたことがありました。
 ここは『BOB'S BBQ(ボブズバーベキュー)』。バーキューを食べましょう。
 え?ここの「フライドシュリンプバーガー」がおいしいと評判じゃないのって?わしゃ、エビはすすんで食わんからのぉ(某編集長と同じなのが気にくわない。)。
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 ショートリブ(つまりはカルビ)もおすすめですよ。  ただし、下に敷いてあるコールスローのキャベツがシュレッダーくずを食べているようで、これだけはいただけません。どうしてハワイのキャベツは、厚紙でできているんでしょう。  そもそもハワイでキャベツは作っているんでしょうか。作らないでください(暴言)。 海外航空券・海外ホテルを同時に高速検索&一括予約。オンライン海外旅行予約サイト「トルノス」

詩では、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎によって『新体詩抄』が刊行され、新体詩が盛んになる。

ドイツから帰国した森鴎外は翻訳詩集『於母影』を、北村透谷は『楚囚之詩』『蓬莱集』を出版した。透谷の「文學界」に参加していた藤村は『若菜集』を、藤村と並称された土井晩翠は、『天地有情』を刊行。これらは浪漫詩と呼ばれる。「文庫」では河井醉茗、横瀬夜雨、伊良子清白が活動した。

象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて北原白秋、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。また、上田敏は、訳詩集『海潮音』を発表し、影響を与えた。

浪漫主義のうち、短歌では与謝野鉄幹が「明星」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』を発表した。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は『一握の砂』『悲しき玩具』を刊行した。

竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「心の花」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』を発表し根岸短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を読んだ。

俳句では、子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。

また、演劇界にも自然主義の影響があり、逍遥、島村抱月らが文芸協会を立て、イプセンの『人形の家』の上演などを行った。文芸協会の解散後、抱月は松井須磨子らとともに芸術座を設置しL.トルストイの作品などを上演、『復活』が評判となった。このほか、小山内薫、2代目市川左團次により、自由劇場の活動が見られた。

明治の終わりになると、ゾラやモーパッサンといった作家の影響を受け、自然主義が起こった。ヨーロッパの自然主義は遺伝学などを取り入れ客観的な描写を行うものであったが、日本では現実を赤裸々に暴露するものと受け止められた。島崎藤村の『破戒』(明治39)に始まり、後に田山花袋の『蒲団』によって方向性が決定づけられた。花袋の小説は私小説の出発点ともされ、以後日本の小説の主流となった。自然主義作家としては、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥らがおり、後に藤村も『家』『新生』、花袋も『田舎教師』を発表した。

この自然主義に対抗したのが夏目漱石である。当初漢詩や俳句を著していた漱石は、『吾輩は猫である』を発表し社会を批判。ユーモアと諷刺とが織り交ざった作品を発表していたが、修善寺の大患後に『こゝろ』『明暗』といった作品で、人間の利己を追い求めた。また、鴎外も創作活動を再開、『青年』『雁』などを書いた後、歴史小説に転じた。

近代文学は西欧近代小説の理念の流入とともに始まり、坪内逍遥の『小説神髄』によって実質的に出発した。「小説の主脳は人情なり、世態風俗はこれに次ぐ」という主張に感銘を受け、二葉亭四迷が『小説総論』を書いた。これらの評論をもとに逍遥は『当世書生気質』(明治18年 - 19年)を書いたが、戯作の風情を多分に残していた。それらを克服して明治20 - 22年に発表された四迷の『浮雲』は、最初の近代日本文学とされる。また、四迷は『あひゞき』『めぐりあひ』といったロシア文学の翻訳をし、大きな影響を与えた。

こうした写実主義的な近代リアリズム小説が充実し始める一方、政治における国粋主義的な雰囲気の高まりにともなって、井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。1885年(明治18年)、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊した。擬古典主義のもと、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』『金色夜叉』を発表した。紅葉の女性的、写実的な作風に対して、男性的、浪漫的な作風で人気を博したのが幸田露伴である。『露団々』『風流仏』『五重塔』などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。露伴と紅葉が活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれた。

森鴎外の登場によって、叙情的で芸術的な傾向をもつ浪漫主義文学が登場する。ドイツへの留学経験の題材にした『舞姫』(明治23)などによって、近代知識人の自我の覚醒を描いた。この頃、北村透谷を中心とした雑誌「文學界」には浪漫主義的な作品が発表された。樋口一葉は、代表作『たけくらべ』『にごりえ』で注目されるが、24歳の若さで結核に倒れた。『高野聖』を発表した泉鏡花は、『婦系図』『歌行燈』で幻想的な世界を描いた。